第5回 小瀬鵜飼講演会 参加レポート
「鵜飼の始まりと古代の鵜飼」 講演:賀来 孝代氏(毛野考古学研究所調査研究員)
2016年11月23日 13:30-15:00 於 関市わかくさプラザ
1. 文献に見る鵜飼い
・7世紀前半の中国の文献「隋書」
・8世紀初めの「古事記」
2. 考古遺物にみるウと鵜飼
・最も古い鵜飼表現は古墳に並べる埴輪
・鵜形埴輪の登場は5世紀後半
3. 古代の鵜飼と鵜飼の現在
・古代の鵜飼は「放ち」「1羽」
■気付きと学び
・考古遺物には魚と組み合う鳥の絵画、造形があり、その中にウ、鵜飼を表した物がある
・これまでは、その「鳥」は鷹狩りの鷹と思われていたものが、賀来氏の調査、分析により「鵜」であると結論づけられるものが多数あることが分かった
・その理由として鳥の首回りに頸結いのような文様がある。但し、手縄のようなもので人と繋がっているような表現はない
・鵜形埴輪というものが古墳に並べる埴輪として5世紀後半の出土品として見つかっている
・古墳に並べる埴輪は、人の生活に関係があるものであるため、5世紀後半には鵜は既に人の生活(漁)に密接に関わっていたと推察される
・長良川鵜飼が1300年の歴史と言われているが5世紀後半となると、日本の鵜飼の歴史は1500年までは確認出来ることになる
・ちなみに、中国の文献「隋書」は7世紀前半、古事記、大宝律令は8世紀初め。
・5世紀の考古遺物を見る限り、この頃の鵜飼は「放ち」であったと考えられる。これは可児弘明先生の著書「鵜飼」に記述されている内容と一致する
・講演で紹介のあった鵜飼の絵には、昼川で舟に乗っての鵜飼で2羽の鵜を扱っているものがある。これは賀来氏は「放ち」と解釈しているが
舟鵜飼で放ちというのは聞いたことがない(そう情報に自分がまだ出会っていないだけかも知れない)。画には手縄っぽいものがあるが真偽は分からない
・古墳時代の鵜飼は放ちで、1,2羽ということまでは推察できるが、昼川、夜川の判断をする材料はない
・賀来氏の仮説は、鵜飼は中国から伝わってきたものではないかというもの
・一方ペルーでは1500年ほど前の土器に、5羽ほどの鵜を操る人の絵が描かれており、未だに鵜飼のルーツについては謎に包まれたままである
資料も掲載したかったのですが、講演者の許可を取っていないので控えます。
鵜・鵜飼から生まれた言葉(諸説あり)
姿が似ているからと言って鵜の真似をして見ずには言った烏(からす)が溺れることが由来。
自分の能力をよく考えず、みだりに人の真似をすると失敗するぞと言うこと。
(烏が鵜の真似 ともいう)
「話を鵜呑みにする」とか言いますが、この「鵜呑み」はまさに鵜飼から生まれた言葉。鵜が鮎をそのまま飲み込むことから。
この話を「鵜呑み」にするかどうかの判断は皆様にお任せします。
うがいは顔を上に向けて(アゴを上げて)水をのど元でガラガラさせることですよね。
日本以外ではこのようなスタイルのうがいはないと聞きます。ガーグル(gargle)という言葉があるので真相は分かりませんが。
うがいの仕方が鵜飼に似ている(鵜が水中で魚を口~喉に含み、その後吐き出す)ことからだと言われています。
実際に1444年の国語辞典「下学習」には「鵜飼(うかい)嗽(くちすすく)也」という記述があるそうです。
なんでも器用に飲み込んでしまう鵜。そんな鵜でもウナギは長くてぬるぬるして動くので飲み込むのには苦労するそうです。
鵜が難儀するので、「うなぎ」と名が付いたそうです。
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ウグイ(鯎、石斑魚、学名:Tribolodon
hakonensis)は、コイ目コイ科ウグイ亜科に分類される淡水魚。
一般的には「ハヤ」と呼ばれる淡水魚。鵜が食べる魚ということでウグイというのが一節。
鵜や鷹が獲物を狙うときに見せる鋭い目つきが由来。ちょっとしたことも見逃すまいと熱心に見入る様子のこと。
単純に集中しているという意味では使われない。
個人的な見解ですが、鵜の目はとても美しいです。エメラルドグリーンのきれいな目をしています。機会があればじっくり見てください。